山あげ祭の由来

永禄3年(1560年)烏山城主那須資胤が疫病退散を祈願するために大桶村の八雲神社より牛頭天王を勧請して現在の八雲神社を創建しその際に行われたのが起源とされている。



その後、江戸時代を通じて八雲神社は庶民の守り神として祀られた。
当初は相撲や神楽獅子が奉納され、一時衰退したが、江戸末期より那珂川水運の拠点となり、
木材や和紙の産地としての繁栄とともに再興すると
5町の持ち回り(元田町、荒町【現在の金井町】、仲町、赤坂町【現在の泉町】、鍛冶町)で
余興奉納が執り行われるようになった。


現在は6町(元田町、金井町、仲町、泉町、鍛治町、日野町【明治期に鍛冶町より分町】)のもち回りで行われ、
当番町制度となっている。


「山あげ」の起源は江戸中期、恵みが町の隅々までいきわたるようにと土を盛り築山を作ったのが始まりで、
その大きさを競ううち、当時高級品だった特産の和紙(程村紙)を竹を組んだ網代に貼り山を作るようになったとされる。
山に「滝」が描かれるのはその名残で、全町を潤すという意味がある。



そののち、山を背景に東京や宇都宮、笠間、常陸大宮などから一座を招いて余興が催されるようになった。
余興奉納は、庶民の娯楽としての一面を持っており、どこの一座を招聘するか、どんな演目を得意とする一座を
招聘するか当番町の若衆の一つの見せ場でもあった。


山あげ祭は栃木県の無形民俗文化財の第1号に指定されて続けられていたが、
踊りの一座の減少などもあり、「山あげ行事」として国の重要無形文化財に指定されたのを契機として、
山あげ保存会を設けて、山あげ保存会芸能部によって常磐津所作の狂言(歌舞伎)を演じ続けられている、


6町それぞれ若衆制度はもちろん、かけ声なども異なっており、屋台を中心とした舞台装置が異なるため得意芸題も異なる。
(例えば、「木頭」の下は金井町では「行事」と呼ばれるが他の町では「副木頭」である)


2016年にはユネスコ無形文化遺産に「山・鉾・屋台行事」として申請がなされている。

2010年 山あげ祭 金井町 古川靖史様撮影

(2010年 山あげ祭 金井町 古川靖史様撮影)

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