乗合船

乗合船

山あげ祭 乗合船

 

 

 

  • 乗合船

     

     

     

    • あらすじ 乗合船恵方万歳(のりあいぶね えほうまんざい)』。 舞台は初春の隅田川。待乳山聖天の下から、川向こうの三囲神社の鳥居下までを往復する渡し船<竹屋の渡し>の船着き場に来合わせた、様々な職業の男女による芸尽くしです。 ストーリーらしいストーリーはありませんが、洒落っ気横溢の常磐津節の浄瑠璃にのって繰り広げる「風俗舞踊」をお楽しみいただけます。

この演目には、女船頭、白酒売り、太夫、才造、通人、大工、芸者の7人を登場人物とし、<七福神>の見立てになるのですが、一座の顔ぶれに合わせ、様々な役を増やしての上演も昔から多く見られます。

そして今回の『乗合船』の大きな特色は、最後に登場人物全員による《総踊り》がつくことです。それぞれが自分の持ち場を演じるだけでなく、みんなで一緒に踊って幕切れをむかえる。打ち出しにはぴったりの演出ですよね。

初御空 霞色どる春の山 鶸(ひわ)や駒鳥 歌よみ鳥の さえずり 
さえずり 梅の梢の下清水 姿映して我が影法師と舞い狂う 声もしおらし百千鳥

台本でもほんの数行の歌詞ですが、ここの部分の三味線の節がとっても素敵な演目です。

  • ★解説★ この曲は、天保十四年正月、市村座二番目大切の所作事、曾我両社御祭礼「魁香樹いせ物語」(かしらがきぃせものがた夕)として上演されたもので、

     

     

     

    十二世羽左衛門が業平から唐女、高歳、
    四世歌右衛門が俵藤太からオ蔵、
    三世関三十郎が百足(むかで)の精から大工、
    中村福助が男舞から角兵衛獅子、
    市川三猿が自酒売から祭りの世話役、
    坂東しうかが女渡守から手古舞に変り、
    尾上菊次郎の巫子、
    市川団三郎の俳階師

    という役々で、作者は三世桜田治助、地方は常磐津、富本、長唄、竹本、四段返しの変化舞舞の一つであつた。 常磐津は四世文字太夫、五世式佐タテで、之が後に独立して「乗合船恵方万歳只のりあいぶねえほうまんざい)として盛んに上演されるようになつたのである。 「月の都も及びなさ」は、花の江戸隅田川の景色は「月の都」、つまり京都も及ばないと云つたわけ。「景色(しき)をこゝに都鳥」はここに見るに都鳥をかけ、 「いざこざなしの乗合」は「伊勢物語」にある在原業平の詠歌「名にしかははいさこととはん都鳥、わがおもふひとはみ夕やなしやと」をもじ夕、都鳥から、いざこざとかけたもの。 「筑波根のこのもかのもと口まねに」は大僧正良珍の詠歌「つくばねのこのもかのもの山風に、かたも定めず散る木のはかな」の上の句を利用したもので「このもかのも」は、こちらあちらの意。 「五百崎六いほざき)は万葉集に「亦打山暮越行而慮前乃角太河原爾独可毛将宿只まつちやまゆふこえゆきていほさきの、すみだかはらにひとりかもねん)とあるを見ても、 隅田川東岸の名所、待乳山、庵崎の名は古ぐ奈良朝時代からあつたことがわかる。「富士額只ふじびたい)は女のひたいの生えぎわが恰度富士山のように美しい形になつていることを筑波山と対照の富士山にかけて云い、 「蓮葉者只はすはもの)は落ちつきのない跳ね返り者の事。「裸かまいり」は職人の小僧が寒参りをする事。「背中に朝(ひゞ)」は日々を、ひゞあかぎれにかけたもの。「たゝき大工」は未熟の大工の事。 「その御贔負を山川に」は自酒の鋸「山川」を贔負の沢山なことにかけたもの「わせられても」は、おいでなされてもの意。「いぶかしな」は不審(ふしん)なと同じ意。「太夫」万歳の事。「立見」は一幕立つて見ること。 「埓もない」はくだらないに同じ。「ごくうれだのハゝゝゝゝ頼母′ヽ」は至極嬉しい頼もしいという略語。「娘島田は娘の島田者の事。「番匠」は大工の事。「こちとら」は職人などが私らという言葉。 「裏釘(うらぐぎ)返してのちは」は廓遊びに二度目に行くことを裏を返すと云い、これを釘にかけたもの。「互ひに二世と 墨さして誓文くさび離れぬ仲を」は遊女と二世(夫婦)の約束誓文の印に、互いに其腕に入墨をすることがあつた、それを大工道具の一つ墨さしにかけたもの、「くさび」は木と木とをつなぎとめる楔のこと。 「節木の性わるさ」は節のある悪い板を性悪にたとえていう。「宗匠」は主として和歌、俳諧、茶道の師の称。玉句とは名句に同じ、「発句」とは本来は違歌の初旬即ち十七字の句が出来、これを発句と云うようになつた。 私が所持する宗長法師の真蹟に、伊勢の国司わたらせたまふ多気といふ山家におはします所の御門外に松あり、いく千年ともしらぬ古木也、これを題にし発句所望あるに、世々にその岩に幾秋霜の松とあり、これは日本俳諧史にも載つていない珍書である。 その発旬が後に俳句と称されるようになつたものである。 「狂道」は道楽に同じ。「士農工商のなりはひ」は武士、農業、工業、商業それぞれの道によつて生活する業(わざ) のこと。 「黒い羽織に小脇差さして」は安永二年(一七七三)刊の「当世風俗通」に、上之息子風として、黒羽織に脇差しを差した姿が描かれているので、この時代からその風俗の流行していたことが察しられる。 「小脇差」は一月四、五寸の小刀を云う。「橋場」は船の渡し場。「未明」は夜明け前のこと。「野暮ものたつぷ」は野暮者たつぶりの略語で、野暮な者の多勢いるの意。 「恐るべ」は恐るべしの略。「浅黄の頭巾引きぬさギツク」本名あるべだネ」は頭巾を引きぬいてギツクリときまつて一とにらみする、何の何某と云う大きな本名がありそうだねえという意。 「木へ行きの」は木母寺へ往つての略。「朝めとこてへやした」は朝飯(あさめし)と答へたこと、つまり注文したこと。「まつぴ」は真平(まつぴら)の略。「直中只たゞなか)はまん中の事。 「船衆穴せんじゆう)は船頭さんというに同じ。「送り船」は吉原通いに仕立てる船。 Eわ岸」は山谷堀に着ぐ事。 「筋をいふべや」は、理を云うことを「夕」(ゆうべ)にかけたもので、すべてこの俳諧師(通人)の役柄が気障な通人気取りで、略語を用いる点にかかしみがある。 従つてこの役は道化役なので、芝居では必ず出るが、舞踊の方では、省かれることもある。「長者のしん」は長者の心棒の意。 「一本の柱」云々は俗に柱立てと云い、十二本まで厄除けの神々に擬して柱を建てる祝言詞。「みろく十年たつて後」の弥勤(みろく)は仏法で説く未来に出現する仏の名で之を弥勤の世と云う。十年たつての後は仮に設けた年数。 「諸太夫の装束は」「公武の沙汰」に、  『一、諸太夫の事摂家清花以下に有之、摂家の諸太夫は腰刀をさゝず、清花以下はさすなり、公方様御晴の時なとは摂家の諸太夫をやとい被召具事在之、如此諸太夫は医師陰陽師官務外記なとよりは上たるべきよし毎日申あらそひ侍る也。』 とあり、京都まで上つては大内(皇居)の御門内に入り、江戸に下つては将軍家の御門かやということを一不している。 そして諸太夫の位は五位で、慶長二十年(Iハ一五)に発布された「公家諸法度」を見ると、五位地下は赤衣とあり、また左折鳥帽子については「続装束図抄」に、左折、また左上夕とも云左眉也、右折は拝領ならで用る事不叶也とある。 「あらけねえ」は荒つぼいという事。「つかみどり」は金銀を蒔き散らしてつかみ取らせる遊戯。「ほうほうの廻多」のは顔のほほ(ほつべた)をいう。 「かでゝらでん」は着物の下の意。「初御空」は元日の朝の空。「親よう鳥」は鶯の異名。「初雷は」春になつて初めて鳴る雷の事である。

  • ★参考文献★『常磐津舞踏全集』

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