山あげ祭の屋台と子どもたち

子どもたちにとっても山あげ祭は楽しみなお祭りです。

屋台を引く子どもたちの姿を見ると、未来の山あげ祭への期待感が湧き上がってきます。人口約25000人の那須烏山市で山あげ祭を後世に残していくことは、難しいことなのかもしれません。若者は進学を機に地元を離れるとなかなか戻ってきません。那須烏山市にも人口減少の波が押し寄せています。

今回、文化未来塾・山あげ研究所の遺産を公開させていただくにあたって、掲載させていただく、仲町も人口減少でわずか50戸足らずの家しかありません。

その中で、山あげ祭を維持していくためにはたくさんのお手伝いの方のお力が必要になっています。今後の山あげ祭から、仲町の名を消してはいけないと皆さん尽力していらっしゃいます。

 

山あげ祭「関の扉」

笠抜で必ず上演される「関の扉」ですが、JR烏山線の終電の関係もあり、観光客の方がご覧になる機会はほとんどないのではないでしょか。

常磐津の名曲であり、歌舞伎座でも度々上演されています。

Youtubeに4Kでアップされている方がいらっしゃいますので、ご紹介させていただきます。

 

2012年の泉町当番の時の音源がありますので、お楽しみください。

山あげ祭「梅川」

山あげ祭で上演される梅川は梅川(上)の部分です。その昔は、「梅忠」とも称されていたようです。常磐津の得意とする心中物の作品です。

あらすじページより梅川(上)を引用します。

 

落人のためかや今は冬枯れて
薄尾花はなけれども
世を忍ぶ身の後や先

 

新口村より大坂へ養子に行った忠兵衛は傾城梅川と情を通じた挙げ句、 他人のお金を使い込んで梅川と駆け落ちをしてしまう。 代官所からの厳しい詮議の中、故郷新口村へ向かい忠三郎が家へ一夜の宿を得ようとするが、 忠三郎は留守であった。忠三郎の家人より、

 

此所の親方孫右衛門様の息子殿、大坂へ養子へ行かれたがその先でけんせん(傾城)と言う物を
たんと買うて挙げ句の果てには、他人のかねを使い込んで、そのけんせんを手に持って逃げたとやら
手に掲げて走ったとやら、代官所からの厳しい御詮議・・・

 

と聞かされる。大坂から来たということで家人に怪しまれるも、懇ろな者だと取り繕い忠三郎を呼んでもらう たすきを外してかけていく女房、梅川と忠兵衛はしばし足を休めることになる。

 

(梅川)必ず必ず死ぬるとも私も一緒におまえの手にかけて殺して下さんせ。
(忠兵衛)何んの愛想が尽きやうぞう、此の忠兵衛も諸共に死ぬるは故郷の土

 

やがて忠兵衛が遠くの野道を見ると歩いてくるのは、忠兵衛が父孫右衛門であった。 この世の別れとは言いながら代官所から探索される身の上、名乗りを明かすことも出来ない身の上の忠兵衛。

 

夫婦は今をも知れぬ命、百年の御寿命過ぎて後、未来で孝行いたしましょう

 

と陰から暇乞いをするのであった。

見所 

「将門」や「戻り橋」と違い、大立ち回りなどは無いが、常磐津の得意とする心中物の作品である。傾城というものを知らない家人の、傾城を表現する様子が見物である。

2012年の泉町当番の年の音源より梅川をお聴きください。

山あげ祭「将門」

山あげ祭で「将門」を含め常磐津所作狂言が今日まで多く上演されている理由はなぜなのでしょうか。

Youtubeの佐一さんの投稿の山あげ祭の将門の画質が良かったので、ご紹介します。

管理人の師匠である常磐津津太夫先生は、水戸における常磐津の太夫の活躍がその一つであると指摘されています。

江戸で事情があって水戸へ下向した常磐津の太夫が稽古場を開きそこから茨城県内各地に常磐津の流行が伝播して伝わったというものです。

常陸大宮壽賀家、久慈浜山水荘、笠間太田家、馬頭三浦屋など近在の踊り一座で常磐津が習得された結果、烏山にも伝播して来たのだろうと管理人は推察しております。

水戸の太夫について調査したく水戸市に連絡をしましたが、わからないとの回答を得たため、それきりになっているのが現状です。

管理人も課題が山積みですが、少しずつ調査して公開してまいります。

 

山あげ祭「戻橋」

「戻橋」は本名題を「戻橋恋の角文字」といい、「新古演劇十種」の一つです。

市川團十郎家の「歌舞伎十八番」「新歌舞伎十八番」に対抗して五代目尾上菊五郎が制定した尾上菊五郎家の家の芸です。(「歌舞伎用語案内」より)

管理人は「戻橋」のクドキの部分が大好きです。

御情け深き御心に 今宵見えし妾さへ 縁を結ぶ露もがな 思ふ恋路の初蛍 言出て兼て胸焦がし 若葉の闇に迷ふもの 都女臈は取り分けて 姿優しき花菖蒲 引きつ引かれつ澤水に 袖も濡れにし事ならん

どうしても「戻橋」が聴きたくて、神田神保町の富士レコードへ行ったところ、常磐津松尾太夫の音源を入手することができましたので、下記にアップロードします。

山あげ祭で口演される「戻橋」とは節が違いますが、お楽しみください。

 

伝統としきたりが受け継がれている宮座組織

山あげ祭は「宮座」という組織が母体となっています。

宮座の中には宮司を中心とする神社側の運営組織と、若衆座を要する町の組織があります。宮座の歴史は古く、何百年と続いており、その点が山あげ祭が国の重要無形民俗文化財に指定された要因となっています。

神社組織は基本的に

宮司—責任役員—八雲講世話人

町内組織は

中老—和歌集世話人—木頭(行事)—主任—若衆—(子供座)

といますが、各町によって組織構成は若干異なります。

例えば、木頭の次は副木頭ですが、金井町では木頭の次は行事となっています。

また、文化財の指定団体として「山あげ保存会」があり、山あげ祭の保存継承をしていくために活動しています。

この「山あげ保存会」には、管理人の所属する「芸能部」も属しております。

「山あげ保存会芸能部」は、踊り方を西川扇士浪先生が、常磐津方を常磐津津紫摩先生が指導していらっしゃいます。

 

 

 

道路には奥行100mに及ぶ舞台が作られる

この奥行きのある立体感が山あげ祭の舞台を迫力あるものにしてくれます。

「日本一の野外劇」の名にふさわしい常磐津所作狂言の舞台が若衆さんたちによって、あっという間に作られます。

普段は何ら変わることのない街ナカの道路、そこが舞台に早変わりする点も山あげ祭の見どころの一つです。

管理人は子どもの頃から、一つの公演が終わるとすぐに次の公演場所に行き、なんの変哲もない道路に、屋台(御拝)と地車がやってきて、舞台があっという間に設営されていくところ観ていました。それを3日間何回も!飽きることのない若衆さんたちの活躍です。

明治期のお祭りの様子

大正期の山あげ祭の様子
明治期の山あげ祭の様子

演目は不明ですが、明治期の山あげ祭の様子です。

もしこの写真の演目、興行主についての情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、お問合せフォームよりご連絡ください。

まだまだ演目についての研究道半ばです。これからも情報収集してまいります。

夜の山あげ祭「将門」

那須烏山の真夏を彩る山あげ祭の「将門」滝夜叉姫登場シーンです。

大森茂宏氏の「先祖が残した烏山のお天王さん」(絶版)の記録を見ると大正12年鍛冶町当番の年に仲町が付祭で「将門」を上演したのが初演となっています。

「将門」は本名題を「忍夜恋曲者」、別名題を「忍夜考事寄」といい天保7年に江戸市村座で初演された常磐津所作狂言です。

それ以来、烏山の山あげ祭では「将門」が今日に至るまで上演され続けています。

「嵯峨や御室の花盛り浮気な蝶も色かせぐ」のクドキの部分の情景が山あげ祭の山とうまく調和しているからでしょうか。

池袋の古本屋で常磐津松尾太夫の「将門」を入手しましたので、下記から再生できるようにします。山あげ祭の「将門」とは節が違いますが、お楽しみください。

 

雀さえずる那須烏山

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